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言葉になる前の、経験について

henseki

坂本冬美さんがフェリーの上で涙を流していた。握っていた数えきれない数のテープの先には、港で見送る数百の人がいた。

2004年12月、瀬戸内海に浮かぶ島のホールで、手作りの「集い」が開かれた。町が姿を変える直前のことだった。

主催したのは「お帰りなさい冬美ちゃん実行委員会」。有志で集まった島の人たちだ。

僕は密着クルーのディレクター。1年前、「白いかおりの島で」という歌を取材したことが始まりだった。

毎日、島のスピーカーから流れるこの歌は、役場の電話の待ち受けや、学校の運動会で使われていた。歌い手は坂本冬美さん。演歌界の大スターの曲なのに、CDに収録されていない「白いかおりの島で」は、公民館で売られていたカセットテープでしか聞けない幻の歌だった。

歌が生まれたのは1989年。この町は、ふるさと創生資金1億円で、島始まって以来の大きな祭りを開催。そこで「町の歌」として披露されたのが、この歌だった。

歌は島に根付き、大切にされている・・・その様子をまとめたビデオレターを東京の冬美さんに見せて、反応を撮ろう、というのが僕の狙いだった。

「ありがとうございます。こんなに大事に、毎日毎日みなさん聞いてくださっていたんですね。ああ、感動です。いま島のお父さんが『いつか来てくれるんではないか』と言ってましたが、行きたいですね、ほんとに…。ね、マネージャーさん」

放送翌日、町の教育長が訪ねてきた。「島で歌番組を収録して欲しい」「あなたには、行きたいですね、という言葉を放送した責任がある」

歌番組を収録することに、何の価値があるんだろう。島で何度も耳にした言葉が耳に残っていた。

「祭りの台本を書いたのはテレビ局。われわれは、やらされていただけだ」

教育長に提案した。どうしても来て欲しい、というなら、ダメもとで、その思いを手紙で伝えてみてはいかがですか。 

彼は町の広報紙で協力を呼びかけ、自分でも手紙を書いた。

私たちの島は、もうすぐ吸収合併されます。名前がなくなるだけですが、みな、元気をなくしています。町がなくなる前に、もう一度「白いかおりの島で」を合唱しませんか。

冬美さんのもとには100通を超える手紙が届いた。

私の歌を待ってくれている人がいるなんて。ぜひ行かせていただきます。

当時冬美さんも、もがいていた。父の死と体調不良が重なり、歌う意味を見失っていたのだという。

冬美さんのリクエストは「集い」にして欲しい、ということ。自分の一存でコンサートを開くことは、大人の事情でできなかったのだ。

島の人々は、自分たちが「集い」を作っていくとは考えていなかった。

橋渡しをした僕は、教育長に伝えた。内容や演出を考えるのは皆さんですよ。僕はそばから、じっと見させていただきます。

教育長は、実行委員会の委員長になった。島の中学校の元校長でもある彼は、教師仲間のほか、役場の職員やミカン農家になったかつての教え子たちを結集した。

船が着いた港にも、「集い」会場に続く県道にも、歓迎の小旗を振る人があふれていた。

お帰りなさい冬美ちゃん

小学生も、お年寄りも、あの歌を歌っていた。冬美さんは、島の人が育てたミカンだけを受け取り帰っていった。島と彼女の交流は、20年以上たった今も続いている。

誰かにやらされたと感じることから本当の言葉は生まれない。

つたなくても、自分で動くこと。言葉になる前の経験は、そこから始まるのだと思います。

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